咲俊

考えたこと感じたこと

はじめましての(3)

 

「ブログを書く意味について」

 

今までは考えてきたことをまとめます。

・「表現の場が欲しい」 半分有効

・「文章構成を早く考えられる」 有効

・「色々なジャンルの文章を切り替えられる」微妙

・「魅力的な文章を書ける」 やり方によって有効

・「美しい文章をかける」やり方によって有効

 

さて、そろそろこの話も終わりたいところです。

次の話題は「思考ノートになりえるか」です。

 

私は物事を考えるときは何か書くものが必須だと考えています。

その役割を果たしていたのはノートでした。考えたことはノートに書きますし、

考えた途中の話題もノートに書きます。そうすることで、思考をストックでき、忘れることなく物事を前進させることに役立ちます。こういった効能を文章を書く上で私は望みます。

はたしてブログでそれをすることは良い事なのでしょうか?

ノートの利点と照らし合わせて考えたいです。

 

ノートの利点は自由度の高さです。紙に対してインクを置いていく構造なため、書く位置、文字の形、大きさは自由ですし、場合によっては概念図もストレス無く書き留められます。イメージが伴うアイデアなどのストックには強い力を持つと考えられます。

一方で手で書くという事がまたデメリットにもなります。書く量が制限されてしまいがちです。書き留める際、頭の中で書きたいことをかんがえ、書く時間を短縮するため、どう文章をまとめるかを考えてやっと書くことができます。自由度がある一方、長文を書くのに負荷がかかるのがノートなのです。

ノートを書くことは今後も継続したいとして、問題はブログとノートをどう使い分けるかです。考えるためにブログとノートの特性上の違いをまとめてみます。媒体の特徴から、こういう効能があったという経験まで書き出してみます。

ノート

・パソコンが無くても書ける

・イメージ(図)を書き留めておける

・人に見られない→内容の自由度も高い

・紙なので管理が難しく、書く内容が煩雑になる

・パラパラめくれるという紙媒体の良さがある。

ブログ

・長文が負荷にならない

・人が見るのを意識する必要がある

 →書きたいことを、他人に伝わるように整理するというプロセスができる

・データであり、タグ機能もあるため、整理が比較的やりやすい

・紙みたいにパラパラめくることができない。

 

こういった利点らより両者の得意とする用途を浮かび上がらせると、

ノート

・分量の少ない思考のストックに重宝する

 突発的思考とも言える

ブログ

・とにかく整理が必要で結論を出したい事柄の思考に重宝する

 

といった風でしょうか。ブログのほうが「成果主義」的といえます。

ノートは些細なことでも気にせず書けるのが特徴です。

ついでなので、自分ができそうなブログの使用例を挙げてみます。

・この記事のような自分が結論を欲している事柄

・日々の生活の中で伝えたいことを書く訓練(ブログの本来の役割に近い)

・映画評

 →良い映画でもノートに書き忘れがちだ。本よりも総合芸術=書くべきことがまとまらない(絞りにくい)ためだ。かといえ、書かないと蓄積が進まないので、忘れるぐらいならブログに書くのが良いだろう。

まだ考え中

・書評

 →書くのは良い事だが、公開するメリットがわからない。基本的に本を読んで得た知識はアドバンテージだという考えがあるため。ノートでよいのでは?

・雑学・技術的な備忘録、まとめ、記事

 →自分がやるべきなのかそれは…といった心情。もちろん、知識の復習にはなるし他人に伝える勉強にはなる。しかし、他人に技術を伝えることが自分の目的ではないので、ブログの主旨からずれがち。

 

そろそろまとめよう。冒頭のまとめに追記

・「表現の場が欲しい」 半分有効

・「文章構成を早く考えられる」 有効

・「色々なジャンルの文章を切り替えられる」微妙

・「魅力的な文章を書ける」 やり方によって有効

・「美しい文章をかける」やり方によって有効

・「とにかく整理が必要で結論を出したい事柄を思考する」有効

 

以前よりは整理できたと思います。まだ全て掘り起こしたわけでは全然なさそうですが、とりあえず終わりにしたいと思います。

次は何を書こうかな。暫定的ですが今後のブログの使用用途↴。

・この記事のような自分が結論を欲している事柄

・日々の生活の中で伝えたいことを書く

・映画評

 

はじめましての(2)

前回の続き。

 

「ブログを始める意味」について、

別の理由として出てくるのが、文章力の強化です。

自分はまとまった文章を書くのが昔から苦手で、書こうとするとどうも内容がまとまらなかったり(この文がまさにこれ)、やたら複数のことが脳内で戦い、タイピングを阻害するといったことがありました。例えば、伝えるべきことはなんだろうか?と、どういえば失礼がないだろうか?、敬語ってどう書けばよいのだろうか?の三要素が頭の中で常に切り替わり、闘争を続け、ある要素を重視して書けば、別の要素が守れなくなり、駄目だ駄目だとBackSpaceを叩いて、20分たってもメール編集画面は真っ白、といったことが日常茶飯事(茶飯事!)なのです。

最初は良かったのですが、アルバイトでビジネスメールを書きはじめ、ついにはこの春から社会人になってしまったので、どうでもよいとは言っていられません。

ついには会社の同期の方にも、ブログを始めるのをオススメされたりします。

 

さて、一口に文章力と言っても色々とありそうですが、自分が求める文章力とは一体なんなのでしょうか?

これは以前考えたことがあります。その時の結論はこうでした。

「ビジネス、物語、エッセイ、ブログ、それぞれで求められている事柄の本質を理解し、柔軟に構成と文章を考える事ができる」

ややこしいですが、何でも書けるようになるのを求めているという事ですね。このように考えたのは、ビジネスメールの例文などを見て真似をしながら書いている自分が、あまりにもノットフレキシブルな対応であり先々辛そうと思ったからでしょう。

また、ジャンルにより文章を変えることを覚えるというのは、その分文章を書く幅が広がり、生活が豊かになると考えたからだと思います。

 実際にこのような文章力がブログを書くことで得られるのでしょうか?現在文章を書いていますが、実際のところあまり構成などは決めずに書いています。出てきた言葉を書こうといった程度です。当然、途中で何を書けばよいのか、度々見失って、キーボードを打つのが止まります。自分の中で問題意識として、このキーボードが止まることをなくさなくては、と考えるようになりました。短い時間で多くの文章を書きたいから。そこで、どうすれば書くことを見失わないか?ですが、まだハッキリとは見えていませんが、なんとなく、脳内で構成を立てることが解決策ではないかと見ています。即興で道筋が決まっていれば、言葉選びに悩むことを覗きタイピングが滞ることは減るのではないでしょうか?

ブログを書くことで期待できそうなのは、すばやく構成を考えて書き始められるようになる、といったことではないでしょうか。

これは、けっこう大事そうですね。なにせ、文章作成が遅いことに悩んでいたのですから。しかし、依然考えた「柔軟な文章力」に沿っているかと言われると疑問を感じるような…とも思います。しかし、最初から各ジャンルの本質などは見えないでしょう。そこでこのジャンルを確定的に作成するには、どのように構成しようか?と見極めて、実際に書き、フィードバックを得て構成草案の精度を上げるのが良いでしょう。そう考えると「とりあえず書く」スタンスは悪くはないと考えられます。キチンと構成を考えてから書く癖を付ければの話ですが。いや、つけましょう。できるだけ、書くより前にちょっと考えるようにします。

 

文章を書く道しるべといえば良いのでしょうか。そういったものを自ら立てる癖が無かったのが、文章が苦手の原因の一つだったのでしょう。と、書いていて気づきました。(本来は学校でわざわざ教えてくれて習得するのに…真面目に受けてなかったのか、消去してしまったのか)

 

ここまではいわば道しるべ作りという面で自分の文章力を見てきましたが、もういくつかの面があると思います。自分が欲しいものとしては、「魅力的で美しい文章」を書く力です。

そういえば、文章の綺麗さなんていまどき要らないよという意見もどこかで聞いたことあります。美しい文章 ≠ 上手い文章(魅力的な文章) であり、両者は異なるのでしょうか。美しい文章と上手い文章のどちらが欲しい?と言われたら…どちらだろうか、上手い文章でしょうか。

いや、そんなことは良くて、自分はそもそも何を求めて「魅力的で美しい文章」が欲しいと言っているのか、ちょっと整理してみます。

 

とりあえず、「魅力的」と「美しい」を分けて考えます。それでは、魅力的な文章について。「魅力的」というからには、魅力があるわけですが、誰にとっての魅力なのか?と言われればおそらく一番は読者にとってでしょう。読者がその文章に価値を見出して、進んで読もうとしてくれる。こういう定義なら魅力的と言って差し支えないと思います。結果論で話してしまったので、それでは、どのような文章なら進んで読んでくれるのでしょうか?これは一口には言いがたいですが、少しずつ上げてみます。

・読みやすく、しかし噛みごたえのある文章

読みやすい文章が良い、なんというのはあまり言いたくありませんが、実際にある程度ライト寄りの文章が売れているのは目にします。表現が平易・的確でスッと頭に入ってくる、情景が浮かぶ。ストレスを感じることが目的で本を読む人なんて稀でしょうから、読むストレスは無いほうが良いです。しかし、ライトすぎるのは魅力が薄いと言わざるを得ないです。「ストレスを感じるために本を読まない」とは言いましたが、かといって、やわらかすぎるだけの文章からは、人は満足感を得ることはできません。なぜなら、情報に触れると言う時点で、人はその文章に対し価値を求めます。読みやすいだけの文章には価値が無く、読者はつきにくいのです。ゆえに、人気がある作家には読み応えというものがあります。それは読者が全く知らない知識がつらつらと(しれっと)書かれていたり、日常で使わない言葉の表現で感情を表していたり、独特のテンポや価値観が文章から発されていて、読むだけで自分の世界が広がる…みたいな要素が挙げら れます。

ブログを書くことで魅力的な文章が書けるのか?と言えば、やり方さえキチンとしていれば可能と思います。というのが、実際に魅力的な文章を研究して、その本質を自分に取り込み、修練を重ねることで成り立つだろうからです。いかに、「本を読み、考える」と「魅力的な文章を目指して書く」を並立してやり続けるかだと思います。並立して書くことで、理論をテクニックに消化し、かつテクニックが可能になるための自分の実力ギャップ(語彙や知識)を知ることができます。これは、大事ですね。目的意識を持ってやりたいで

結局は、読者が感じたい感情 あるいは欲求と言い換えると生々しいながら的確なのですが、それを理解して逆算的に文章の方向性を決定できると言うのが、魅力的な文章が書ける人物の能力かもしれません。

面白い文章を書く人は素も面白い、というのは聞きますがね。

 

このあたりにして、次に「美しい文章」について考えてみます。

美しい文章と言うのは、読んでいて飽きません。逆に言うとあまりにも美しくない文章は読む気がうせます。この両者の違いはなんなのか、それを考えてみたいです。

・美しい文章は、漢字をはじめとした言葉を大切にしている。

 美しくない文章に感じたことは、言葉に対してリスペクトをする意思の無さです。漢字か、もしくは既存の専門用語でも使えばよいところを、著者自らがキャッチーな用語を作ろうとしてよくわからないカタカナ語を生み出す…などをしていたら、これは美しく無いと感じます。一方、小説の登場人物がしれっと風情ある言葉を使っていたら、感情が自分の中に鮮やかに流れ込んでくるのを感じます。美しい文章というのは、視覚、音、意味の面で洗練されている文といえばよいかもしれません。言葉はいろんな感動を持っている。そのことを知っており、うまく利用(あるいは徹底)できていることを美しい文章と言うのではないでしょうか。

 ささやかでも良いのです。昔の和歌の引用や、良い響きの言葉が使われている。言葉を楽しんでいる。このことが文章に美しいと感じさせ、魅力を与える要因でしょう。以前見た意見で、「今となってはもはや文章の美しさは必要無くなった」と言われていました。確かに、本が売れなくなり、言葉はどんどん平易になってゆき、文章の良さが大きな価値となる時代は終わったのかもしれません。けれど、自分は無駄とは言い切れません。少なからず、良い文章は人の心をひきつけます。

 美しい文章を書く上で注意する点は、「美しい文章を書くことが目的となる」ことでしょうか。あくまで手段ですから、良い文章に書くことに夢中で他の魅力がおろそかになるようではいけません。そう考えると引き際が大事と言えます。

 けれど私は美しい文章が書きたいです。自分の中から、素敵な言葉が飛び出してくるような、そんな日々に憧れます。結局はそこが一番憧れているのかもしれません。

 

はじめましての(1)

これから文章を書いていきます。

よろしくお願いします。

 

いきなりですが、ブログを始める意味について少しだけ考えてみます。

というのも、開設には色々な理由(予想ではそれほど色々は無さそうだが)が

あるのですが、各要素が頭の中で泳ぎまわり、お互いが混ざりあうことでその本質が見えなくなったり、かと思えば突然浮上してきたりで、とにかくごちゃごちゃしています。

非常に混乱するので一度は洗い出してみる必要があると思いました。

もしかしたら、大して意味がないかも知れない…そんな結論が出るかもという己の曖昧さに呆れつつも、書き連ねてみます。

 

まず最初に、記憶を辿り、ブログを始めようと思った理由で一番古いものを探してみると、それは表現の場が必要というものでした。そのように思考が赴いたのは、公然の場(インターネット)で何かを出すという機会が減ったことに対して、物足りなさを感じたからでしょう。

去年の夏に何年か続けていたツイッターのアカウントを削除し、並べて運営していたTumblrやpixivも更新を辞めるという出来事がありました。そのような行動をした理由は置いておきますが、事実として「作ったものを評価してもらう一連の流れ」が自分の日々から消えます。肩の荷が下り、生活に緊張感が生まれることは無くなりました。私はこれにより、何を失い、何を得たのでしょうか?

1.1.何かを作る義務に追われることが無くなった。

 ⇒好きなことに存分に時間を裂けられるになった。

一方で締め切りがないため、長い間これといった成果物が何も生まれませんでした。のんべんだらりと暮らしたのは正しかったのか。それはわかりませんが、少なくともtwitterを辞めたことは良かったと思います。とはいえ、twitterをやっていたころもそこまで締め切りに追われていたかと言われれば微妙でしたが。

1.2.レスポンスが無くなった。

個人的にはこれは大きいのではないかと思います。twitterに成果を上げていた動機で大きいものとして、インターネットを通した誰かからの反応が欲しかったのが上げられます。より詳細に言えば反応を受けて得られる「手ごたえ」欲しさからだったといえます。どれだけの人数が反応してくれたか。どんな人が振り向いてくれたか。普通の日常では考えては消えてしまう思考(想像、妄想と言ったほうが良いのか)ですが、これを具現化することによってどれだけの価値が生まれるのかを測る。そういった意味合いがあったのではないかと考えます。

 

表現の場が欲しい。ブログ開設によりこれらの穴は満たされるのかを考えてみます。

まず、成果物をうむ義務がなくなったことについて。これはブログを始めて本質的に得られることではないと思います。だって、義務なんてありませんから。ブログでお金を稼ぐ、ブロガーと呼ばれる人々(定義合っている?)なら生活のためにそういった義務感が生まれる余地が多分にありますが、自分にはその気はありません。というか、そもそも義務感で文章書きたいのか?と言われると微妙です。

もう一つですが、レスポンスの話。こちらも微妙だと思われます。なぜなら特にジャンルも決めず、一発目からこんな文章書いてる時点で、具体的なビジョンが無いからです。レスポンスを得るには読者が必要です。そしてその読者を得るには、ジャンル、明確に言うならば読者獲得のためのタグとでも言えば良いのでしょうか、そういったものが要ります。また「著者」で何かしらタグが付けられれば良いのですが、自分はこれといって何者でもありません(twitter時代の名前を使えば多少いけるのかもしれない)。それが皆目設定されていないとあっては、そもそも読者を得るなど先の遠い話です。そのように自分が考えるのは、twitter開始初期の頃に非常にニッチ需要的ジャンルで読者獲得を図っていたからです。

 

さあ、義務感から来る緊張感、あるいはレスポンス。そういったものはあまり期待できないことがわかりました。「表現の場が欲しい」という目的は、やや的外れであることが伺えます。とはいってもこれは現段階の話なので、後に胎動を始めるかもしれませんが、とりあえず今は「ブログを始める理由」内のパーセンテージを下げておきます。

降順のリストの下のほうに格納しておきましょう。

 

まだ終わってませんが、とりあえず辞めます。

新しい記事を作るか、追記するかはまた決めます。